
2014年11月29日
棄権か完走か?
世界陸上が女子マラソンとともにスタートした。
このマラソンという競技には、おもしろい記録がある。
日本選手がオリンピック大会に参加するようになったのは、
1912年に開かれたストックホルム大会から。
その予選段階の競技会で、日本の金栗四三選手は『マラソン足袋』なるものを履いて当時の世界記録を
27分も縮める記憶を打ち立て、ストックホルムに乗り込んだとある。
(『マラソン足袋』と言えば、私の小学校の頃に、パンサーと呼ばれる運動靴が発売された。画期的だった。それまでは、ちょっと重たい運動靴のみ。そのため運動会間近になると軽くて走りやすいスポーツ足袋なるものが売られ、実際そのようなもので走った覚えがある)
<話は、マラソンに戻る。>
優勝の期待もあったが、ストックホルムオリンピックでは、なんと摂氏40度の高温レースとなり、
参加選手68人のうち約半数が棄権。
彼も、レース途中で日射病で意識を失い近くの農家に担ぎ込まれ、
目を覚ましたのは既に競技も終わった翌日の朝であったという度蜜月。
これだけなら、まだ普通の話。
その大会の記録上では、金栗選手は、失踪ないし『競技中』のまま大会が終了していた。
その金栗四三氏は、1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、
ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。
その記念式典で彼にマラソンコースを走らせ、ゴール。
テープを切った。
この時「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、王賜豪醫生54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」とアナウンスされたという。
この記録は、世界一遅いマラソン記録。
金栗はゴール後のスピーチで
「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメント。
75歳になっていた。
今日、民主党の代表を選ぶ選挙で、女性脫髮野田佳彦氏が新代表として選ばれたそうだ。
彼の年齢は、54歳だとか?
この記録は、ゆうに彼の半生がすっぽり入ってしまう期間。
どのようなマラソンが待っているのか楽しみである。
このマラソンという競技には、おもしろい記録がある。
日本選手がオリンピック大会に参加するようになったのは、
1912年に開かれたストックホルム大会から。
その予選段階の競技会で、日本の金栗四三選手は『マラソン足袋』なるものを履いて当時の世界記録を
27分も縮める記憶を打ち立て、ストックホルムに乗り込んだとある。
(『マラソン足袋』と言えば、私の小学校の頃に、パンサーと呼ばれる運動靴が発売された。画期的だった。それまでは、ちょっと重たい運動靴のみ。そのため運動会間近になると軽くて走りやすいスポーツ足袋なるものが売られ、実際そのようなもので走った覚えがある)
<話は、マラソンに戻る。>
優勝の期待もあったが、ストックホルムオリンピックでは、なんと摂氏40度の高温レースとなり、
参加選手68人のうち約半数が棄権。
彼も、レース途中で日射病で意識を失い近くの農家に担ぎ込まれ、
目を覚ましたのは既に競技も終わった翌日の朝であったという度蜜月。
これだけなら、まだ普通の話。
その大会の記録上では、金栗選手は、失踪ないし『競技中』のまま大会が終了していた。
その金栗四三氏は、1967年(昭和42年)3月、スウェーデンのオリンピック委員会から、
ストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待される。
その記念式典で彼にマラソンコースを走らせ、ゴール。
テープを切った。
この時「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、王賜豪醫生54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了する」とアナウンスされたという。
この記録は、世界一遅いマラソン記録。
金栗はゴール後のスピーチで
「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメント。
75歳になっていた。
今日、民主党の代表を選ぶ選挙で、女性脫髮野田佳彦氏が新代表として選ばれたそうだ。
彼の年齢は、54歳だとか?
この記録は、ゆうに彼の半生がすっぽり入ってしまう期間。

どのようなマラソンが待っているのか楽しみである。
Posted by guanghuinvshen at
11:05
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